内省の意味とは何か
ヒトの認知メカニズムについて学べば学ぶほど「自分が死んだらどのような感じなのだろう」と考えてしまう。きっと意識はないであろう。ただ、眠っている時とはまた違うのだろう等、色々なことを考えるのである。
ところで、自身が子どもをもってから、自身が死ぬことへの恐怖心がいくらか薄くなったことは事実である。「子ども」という目に見える存在を通して、自分の遺伝子が確かにこの世に存在することを、また、若い(幼い)肉体にそれが宿り受け継がれていることを、半ば強制的に認識したからであろう。
一言でいうならば、「子ども」という存在を通して、自分の遺伝子が延命措置を受けた。そのように感じたのである。そして本能的に、無意識的に、死への恐怖が薄れたのではないか(つまり、まあ死んでもいいかと思えるようになった)、と考えている。
ここでいう「自身の子ども」とは、単なる1つの事例・対象に過ぎない。自身の場合は、たまたま自身の子どもという存在を通して、自身の遺伝子が次代に繋がることで、死への恐怖が薄れた、というだけの話である。ヒトによってこの対象は様々であろう。例えば、自身の子どもでなくてもよいし(血の繋がりがない他人でもよい)、さらにいえばヒトでなくてもよいのではないか(動物でもモノでもAIでもよい)。
ところで、久しぶりにミンツバーグを読んで「内省」の意味を再確認した。過去の事実経過を書き連ねただけでは、内省とはいえない。過去の事実経過に、未来が展望されるものを積み上げなければ、内省ではないのだ。未来の自身の死への恐怖は薄れる一方で、自身はいつまでたっても内省していないのではないか。そのような気がして、ひとり焦りと恐怖を覚えているのであった。