yosu_kemの雑記帳

【不定期更新】日々の暮らしの中で気づいたこと、心が震えたこと、等を記述します。ライフワークとして学術論文の執筆に向けて準備中です。関心のある領域は産業・組織ならびに認知心理学です。ヒトは外部記憶装置として他者をどのように認知し、利用し、相互作用しうるのか、を探究しています。

おっさんが舞う

電車の中でおっさんが舞う。
またしても電車での話である。

とある日の帰宅途中、電車にのっていた。

電車はとあるハブ駅についた。そこから乗り込んで来たおっさんは、乗降で入り乱れる乗客をかきわけて、空いていた座席のわずかな隙間に「わずかに」舞うようにしてダイブした。そこに座ろうと腰をおろしかけた乗客はあまりの剣幕にさっと身を避けた。

このようにして、そのおっさんは貴重な座席をゲットした。ふと思いだしたのは、子どもの頃に遊んだ席取りゲームである。ケツが椅子についてなければまだ君の椅子ではないでしょ?という剣幕で、座ろうとした(ほぼ座っていた)痩せ気味のA君を押しのけて(ふっ飛ばして)、強引に椅子を取ったやや豊満なB君のことを、ふと思いだした。

そしてわずかに舞ったおっさんは、そのような苦労をして座席を確保したにもかかわらず、次の駅で、たった一駅で、涼しい顔で降車したのであった。まったくもって面白いおっさんである。

「電車内」は社会の縮図といえるのだろうか

前回更新に引き続き、電車内のネタを記述する。

 

ある仕事帰りの夜であった。

ほろ酔いでターミナル駅から電車に乗り込み、帰途につく。

 

ふと目に留まったのは、二人の若者であった。
この二人の若者は(20代前半、大学生であろうか)、向かい合って着席していた。

 

ここで1つ説明を加えたいのだが、高校生から大学生くらいの若い男性において、
「この座り方」をする輩がたまにいる。まさに面と向かう、対面式のスタイルである。

 

反社会的勢力と呼ばれる組織に属する方々は、厳しい交渉時には必ずこのスタイルを取るらしい。そして、その厳しい交渉で相手をやり込めた後には、今度は向かい合わせではなく、横に並んで座り、優しい言葉をかけるという。こうしたギャップ戦術により、相手の心の隙間に深く入り込む、という。これは私が唱えていることではなく、某「元大阪府ならびに市の首長」が以前に出版した書籍内に書かれていたネタ、すなわち単なる受け売りである。笑。

 

さて、オスという生き物が最も力みなぎる、すなわち様々な欲求や葛藤が「たぎる」年齢は、いつくらいなのであろうか。

 

自身について述べると、ティーンエイジャーの頃であった。すなわち、高校生から大学生の2年生くらいにかけての頃であった。「たぎって」いるわけであるから、沸き立つようなリビドーもとい本能を理性で抑えることが難しいお年頃である。

 

若い野郎同士は、意図せざるか否か、は不明だが、とにかく向かい合って座ることを心地よく感じる一面を持っているのであろう。そして相手を見定め、吟味し、隙あらばマウンティングしたい欲求があるのではないか。

 

「対面式」での着座は、円滑なコミュニケーションの遂行という点でも、一定の合理性を孕んでいる。車中が混雑していなければ、そして、相手との間に乗客が立って遮ることがなければ、質の高い情報伝達の遂行が可能となる。対面式であれば相手の表情や目線、仕草等を漏れなく拾えるために、たとえ相手の声が聞き取り辛くても、相手が言い間違えをしても、相手の意図がこちらに伝わりやすく、逆もしかりだと思われる。

 

他方、同年代の女性は絶対に「この座り方」をしない。基本的には横にならんで着座するスタイルをとる。競いたい、というよりも連帯感を共有することに心地よさを感じるのであろうか。若い世代がやがてオバチャンになると連帯感の共有よりも、「強引さ」や「自分の話をとにかくしたい」強い衝動が先行して、何が何でも横に座ろうとする。
どう考えても1人分ないだろう、と思われる、ヒトとヒトのごく僅かな隙間にも
体を潜り込ませてくる。何が何でも横にならんで、くっちゃらべっちゃら話をしている。そして、「どう考えても相手の話を聞いてない」と思われる返答や相槌が散見されるのである。それがオバチャン同士の会話によくみられる傾向である。

 

さて、話を冒頭の二人の若者(対面式で着座している)に戻すことにしよう。そのうちの一人が、とても満足げな様子で相手にこんな話をしていた。

 

「街で女のコが話しかけてきてさ~。大学生くらいかなあ?すげ~かわいいコでさあ。
速攻で連絡先を交換して、しばらくたったら電話がかかってきたんよ。
『週末に心斎橋で美術品の内覧会があるから一緒にいこうよ~』とか言っててさあ。
美術品とかどうでもいいけど、この積極性、どう思う?」

 

相手の眉が一瞬ピクッと動く様子が、見えた。

 

そうねえ、純粋な恋愛に繋がるといいよねえ。完。


うーむ、今日のブログは手抜きをしてしまった。

風呂敷を広げるだけ広げた挙句にたたまずそのまま帰るような感じ。笑。

また別の日の更新において、考察を深めていきたい所存です。

暗黙的な対話、および、協調とは何か

電車の車内にて。対面に座ったおっさんが、座るやいなや「プシュッ!」と良い音を立てて缶ビールの栓をあけた。

その表情を観察していたところ、栓をあけた瞬間こそ恥ずかしそうな顔を見せたが、次の刹那、その表情に変化が見られた。

そのおっさんに先立って、片手に角ハイボール缶をもつワタクシの姿を確認するやいなや、きゃつはホッとした表情を見せた。そのことを、ワタクシが見逃すはずがない。もちろん、ワタクシもホッとしたのであるが。

八日目の蝉

ある朝、タクシーを使って子どもを保育園に送り届けた。

 

先にエンディングを述べたが、このままでは「あっそうですか」で終わってしまうので、保育園に到着するまでのプロセスを振り返ることにする。

 

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その日は電話がなかなか繋がらなかった。

 

電話口の向こう側ではひたすらコール音が鳴るばかり。
一刻もはやく、貴方の声が聴きたいというのに。

 

しかしながらそれは叶わない。ひたすら鳴り響く機械音は、
真夏の蝉の鳴き声のごとく。ただそれをひたすら聴き続ける私。

 

そう、私は孤独な「八日目の蝉」。
仲間はみな、地上にでて七日目に死んでしまった。

 

いま、まさにいま、この世界に生きているのは
私だけではなかろうか。

 

そのような、若干のナルシシズムを孕んだ
勘違いをさせてくれるほどに、その機械音は、音であるとともに、
音でありながら、音のくせに、私のなかに沸々とわきあがる、
「忌々しさの象徴」へと昇華したのである。

 

この機械音は、ただそれを無条件で受け入れるしかない
対象、つまり私に対して、苛立ちと孤独を植え付ける
大いなる力を有しているということか。

 

いや違う。その音を知覚し、解釈をし、
忌々しさの象徴を見出したのはまぎれもなく私なのであるから、
私こそが私自身に苛立ちと孤独を植え付ける大きなる力を
有している、ということではないか。

 

・・・などと悶々としていたが、もう我慢の限界である。
ああ、もう駄目だ、我慢ができない。
震える指先が、機械音を、そして、忌々しさの象徴の息の根を
止めようとしたまさにその時である。

 

「は~い、●●タクシー配車係ですぅ~」
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ただでさえ焦っている朝。さらにその日は子どもを送り届けるタスクが
追加されている朝。正直、配車係はもっと回線を増やすべき!と思ったのだが、
回線を増やすという対策を講じたところで根本は解決しない。

 

くわえて、その日は金曜日であった。

 

「金曜日の午前中は病院通いの人達のオーダーが多くなるんで、配車係も運ちゃんも大変忙しくなるんですよ~」とのこと(運ちゃん談)。

 

なぜ金曜日の午前中にオーダーが多くなるのか。

 

「そりゃあ土曜日を避けるからですよ」とのこと(同上)。真因は表層にないねえ。

煮しめの香りの意味を知る

 皆さま、明けましておめでとうございます。新年も頑張ってブログを続けます~酔っぱらってるぞ~ギャヒヒ~。

 

 さてさて・・・。自身はマンションに住んでいる。ある日、仕事からの帰りのことである。仕事帰りの夜更けにマンションの階段をトボトボと上がっていると、どなたかの家から「干し椎茸」の匂いがしており、階段とフロア中に充満している。鶏肉や人参、こんにゃく等と一緒に炊かれたのであろう。そして甘辛く味付けされたのであろう。何ともいえない食欲をそそる香りである。椎茸嫌いのヒトには「違う意味で」たまらなく、他方で、椎茸好きのワタクシには「そのままの意味で」たまらない匂いである。

 

 ところで、とても寒い冬の朝。駅に向かってトボトボと歩いていると、いつも目に留まる「街の掲示板」がある。掲示板にはガラスのカバー(扉)がついていて、そのカバーの向こうに、地域の防災訓練や子育てひろばの日時・場所の案内等、暮らしに関わる催し等のチラシや小さめのポスターが画鋲で板に止められて掲示されている。

 

 ところが、また別の朝においては、チラシやポスターが掲示されていないようだ。何故なのか理由は分からない。「あれ?もうすぐ年が新たになるから、古いものを全部剥がしたのかな?」と、一瞬思った。特に意味もなく掲示板に近づいてみると、いつものように、チラシや小さめのポスターが掲示されていた。

 

 何のことはない、あまりの寒さで、掲示板の外側のガラスカバーが白く曇っていただけであった。外側のガラスが曇っていたために、離れた場所からはその中身のチラシやポスターが一時的に「見えなかっただけ」なのだ。

 

    何気ないこの度の事象・事例から、自身の認知におけるほんのささいな傾向やバイアスが、態度や行動に大きな影響をもたらしうることを再確認した。椎茸の煮しめの香りを、どのようにたまらなく感じるかはヒトそれぞれである。それに、同一のヒトにおいても、そのヒトがまさにその時おかれている状況によって、対象からもたらされる意味は容易に変容しうる。単純化すれば、仮にお腹一杯で「もう食べられねえ〜ウップ状態」のときならば、ワタクシでさえも椎茸の煮しめの香りを快く思わない可能性がある。…という話を延々としました。今年もよろしくお願い申し上げます。

組織社会化と狂気

 自身の職場が立地する周辺エリア。こちらを一言で表現すれば、ヒトの欲望が分かりやすく可視化された街、となろうか。二文字で無理やり表すと、煩悩、猥雑、退廃、といったところであろう(無茶苦茶言っとるな)。
 自身は昼休みになると、職場近くにあるコンビニへと足を運ぶのがルーチンとなっている。そこで何をするか。雑誌売り場でしばし情報収集をし、飲料を買い、昼食については、そこで買うこともあればそうでない時もある。
 さて、その雑誌売り場にて、とても変わった男性を見かける。出会う頻度は、一カ月に一度出会うか否か、といった程度だ。その男性はいつも雑誌売り場において、「異常なまでの神経質さ」で雑誌を整理整頓している。
 どのように異常であるかといえば、たとえばフライデー(雑誌)を例に挙げてみよう。フライデーが複数部そこにあることを感じさせないくらいに、厚みと立体感を感じさせないくらいに、1フェイスでピシッと揃っていないとダメらしい。もちろん、雑誌棚において、フライデーが2箇所に分かれて配置されていてもダメらしく、ピシッと1フェイス。さらに、彼なりのフライデーの定位置があり、どうやら週刊ポストSAPIOの間と決まっているらしい。これ、フライデーだけではなくて、その雑誌棚に並んでいる雑誌全てにたいして、そのような態度で臨んでいるのである。
 彼と出会う度に思うことがある。この異常なまでの神経質さは、自身の心の隙間を埋めようとする、あるいは、欠乏する何かを満たしたい衝動なのであろうか。それとも、何かに駆り立てられて「そうせざるをえない」のであろうか。
 ところで、実はこの男性は「コンビニの店員ではない」。店員の服装をしていない。はじめは店のオーナーか関係者か?と思ったが、服装は決まって薄汚れたジャージとサンダル。整理整頓を終えたら何も買わずに、店員と全く話すこともなく、繁華街のほうへと消えてしまう。よってほぼ間違いなく、店の関係者ではない。まあ、色々と思うことがあるので、これ以上の言及は避けることにしよう。
 実はこの事象・事例から、以前にインタビューをしたある経営者の言葉を思い出した。「彼ら(社員)はね、好きでやっているんです。誰からも、もちろん、上司からも、私からも、強制されてはいない。彼らは自らの意思で、でも何かに駆り立てられるように、ガツガツと創意工夫をするのです。何がそうさせているのでしょうね。」というもの。組織社会化と狂気とは、違うようでいて、実は共通項があるのかもしれない。

内省の意味とは何か

   ヒトの認知メカニズムについて学べば学ぶほど「自分が死んだらどのような感じなのだろう」と考えてしまう。きっと意識はないであろう。ただ、眠っている時とはまた違うのだろう等、色々なことを考えるのである。

    ところで、自身が子どもをもってから、自身が死ぬことへの恐怖心がいくらか薄くなったことは事実である。「子ども」という目に見える存在を通して、自分の遺伝子が確かにこの世に存在することを、また、若い(幼い)肉体にそれが宿り受け継がれていることを、半ば強制的に認識したからであろう。

    一言でいうならば、「子ども」という存在を通して、自分の遺伝子が延命措置を受けた。そのように感じたのである。そして本能的に、無意識的に、死への恐怖が薄れたのではないか(つまり、まあ死んでもいいかと思えるようになった)、と考えている。

    ここでいう「自身の子ども」とは、単なる1つの事例・対象に過ぎない。自身の場合は、たまたま自身の子どもという存在を通して、自身の遺伝子が次代に繋がることで、死への恐怖が薄れた、というだけの話である。ヒトによってこの対象は様々であろう。例えば、自身の子どもでなくてもよいし(血の繋がりがない他人でもよい)、さらにいえばヒトでなくてもよいのではないか(動物でもモノでもAIでもよい)。

   ところで、久しぶりにミンツバーグを読んで「内省」の意味を再確認した。過去の事実経過を書き連ねただけでは、内省とはいえない。過去の事実経過に、未来が展望されるものを積み上げなければ、内省ではないのだ。未来の自身の死への恐怖は薄れる一方で、自身はいつまでたっても内省していないのではないか。そのような気がして、ひとり焦りと恐怖を覚えているのであった。